昨今、日本の難民認定率の異様な低さの引き合いに出されている「日本はなぜ難民を受け入れないのか」という問いは、戦後日本が朝鮮人をどのように扱ったのかという歴史に直結する問いです。それは、先述したように、戦後混乱に陥っていた朝鮮半島が米ソの分割統治から朝鮮戦争への道に進んでいく情勢の中で、生活が困難になり日本に渡ってくる人が多かったからです。つまり、朝鮮半島から「密航」してこざるを得なかった朝鮮人が少なからずいたのでした。(中でも、済州島からの渡航者には、4・3事件によって「アカ」との烙印を押され逃れてきた多くの避難民がおり、韓国に戻れば韓国軍によって拷問され殺される危険性がありました。)
日本社会において、在日コリアンは日本人の真横で生活してきているにもかかわらず、4・3事件のこと、ひいては朝鮮半島の南北分断の悲劇が日本の植民地主義に由来していることが一般に共有されているとは言い難い現実があります。今、日本で生きている難民への想像力が欠如しているのは、在日コリアンがたどってきた歴史を忘却し軽視しているからです。今、各国から逃れてくる難民と向き合うことは、これまで清算されてこなかった日本の植民地主義の問題とどのように向き合っていくかの姿勢に表れてきます。人権の観点から入管の政策を批判するのはあまりにも前提であり、これを一過性の問題として風化させないためにも、今、日本の継続する植民地主義の観点から入管を批判していくことが問われています。
また、日本の難民認定率の低さが語られる際、もうひとつ引き合いに出されるのが「日本がインドシナ難民を受け入れた経験」です。実際に、日本がインドシナ難民を受け入れたことは、在日コリアンにとって思いがけない転機となりました。1982年より日本でも適用されることになった難民条約によって、在日コリアンの国籍(韓国籍か“朝鮮”籍か)を問わず、特例永住として永住が認められるようになったのです。同時に、それまで在日コリアンが裁判でいくら闘っても勝ち取れなかった社会保障制度(国民健康保険や国民年金、公団住宅など)加入の権利が、このインドシナ難民をのせた「黒船」の到来により付与されることになったのでした。しかしこれは言い換えると、日本政府が自発的に「外国人」の権利について考えた結果ではなく、国際社会からの圧力によって仕方なくそうせざるを得なくなっただけとも言えます。その後も、在日コリアンは指紋押なつ拒否運動を、他の在日外国人と日本の市民と共に展開し闘ってきました。大村収容所には、1990年に至るまで約44年間、韓国・朝鮮人が収容されます。実際に、旧植民地出身者の子孫までの永住権が保障されたことによって生活が安定してきたのは、実に戦後半世紀近くたった1991年のことでした。
一方、たとえ特別永住者であっても、課題は残ります。①未だに退去強制の対象であり(入管特例法22条参照)、②未だに再入国許可制度の対象として、再入国許可の期限を過ぎた場合はいつでも在留資格が失われる危険と隣り合わせであること、③そもそも在日朝鮮人の中でも、いまだに韓国籍と朝鮮籍者、あるいは1945年9月2日以前から引き続き日本に在留していた人・その子孫、そうではない人・その子孫(いわゆる「密航者」)との間に、歴史的背景は同じであるにも関わらず在留資格・法的地位の差があり、是正されていないためです。
そのような中、今回の問題は在日コリアンに対する日本政府の方針と密接に繋がり、両者ともに、現在進行形の日本の植民地主義・人種/民族差別(レイシズム)の現れではないかと考えます。インドシナ難民の受け入れは成功体験として語られる傾向がありますが、その際に批准した国連の難民条約でさえ守られておらず、現在に至るまで入管は難民を人間として扱わない人権侵害の運用を行っています。これは、過去の植民地主義の清算という根本的な問題を置き去りにしてきたからではないでしょうか?


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